第19回 個と組織ドラッカーのマネジメントの視点(1)
国の政策レベルと、実際の仕事現場での受け取り方の乖離が大きいようです。とにかく残業時間を減らすことに注目が集まっています。確かに、過重労働による痛ましい事件が報道されるたびに心が痛みます。厚生労働省も「過重労働撲滅特別対策班(かとく)」なるものを組織して、摘発をし、書類送検にいたるケースが増加しています。大企業に限らず、地方の中小企業に対しても、県労働局、傘下の労働基準監督署による調査も厳しさを増していると聞きます。
一方、働く社員から見ると、今までと同じ仕事では評価されず、また会社も競争に敗れてしまう。さらに多くの成果を、残業ナシの短い時間で出さなければならない。こういったストレスもたまっています。個々の社員には、セルフマネジメントの視点からの学びと実践、マネジメント層には、人のマネジメント、仕事のマネジメントをすることにより生産性を上げることが求められています。
これから数回にわたって、ドラッカーのマネジメントの思想を解説していき、原理・原則を説明します。そこから自らの組織でできること、やるべきことを見つけて実践していくための糸口を探ります。
今回はその第一回目、歴史の流れの説明です。大きすぎて、実務には直結しませんが、今後の各論を理解する上でのベースになるところです。お付き合いください。 ドラッカー(P.F.Drucker)は、1909年オーストリア・ウィーンの生まれです。2005年にアメリカ・カリフォルニア州クレアモントで亡くなりました。20世紀を生き抜いた人です。第一次世界大戦のときにはまだ幼少でしたが、大戦間の困難な時代に青年期を送り、ナチスから逃れてイギリス経由でアメリカにわたり、第二次世界大戦・戦後の復興を大学教授、コンサルタントとして支えてきた人物です。日本との縁も深く、敗戦後の日本の復興を進めた企業経営者に教えを授けた人物でもあります。
ドラッカーは経営学者として一般に知られています。「マネジメントの父」などと呼ばれますが、本人は自らを「社会生態学者(socio-ecologist)」と称していました。キャリアのスタートは、政治学者です。経済、社会、宗教、哲学から美術(日本画)までをカバーする碩学(こうがく:学問が広く深いこと)でした。
そのドラッカーが、一人ひとりが幸せに暮らせる社会を実現するために必要なものと考えたのが組織(営利企業のみならず、NPO、役所、協会、病院など)でした。
その組織を社会にとって存在意義のあるものにするための道具を「マネジメント」と呼んだのです。
18世紀後半、産業革命がおこり、アダム・スミスが『国富論』を書きました。産業革命は、蒸気機関の発明により、膨大な生産力をもたらしました。その生産設備を所有した資本家と工場労働者との間の富の差を生みました。学校の歴史で習った通りです。
一方、人が組織で働くという産業社会、組織社会を生んだという重要な側面があります。それまでは、組織と言えば、教会と軍隊しかなかったのです。一方、アダム・スミスは、自由に利潤を追求することによって人は幸せになる。つまり、人は経済的な存在(=エコノミックアニマル)であると言いました。こうして誕生した、ブルジョア資本主義は、経済を中心に据え、神の見えざる手が社会を望ましい方向に導いてくれる、としました。しかし現実は、格差と疎外を生み、富める者がますます富める社会になっていきました。
一方で、マルクス社会主義は、生産手段を資本家から奪い取ることにより労働者階級(プロレタリアート)は解放され、富の公平な配分を実現できるとしました。しかし、実際にはマルクスの教義を理解し、指導する立場たる特権階級を生み、大衆を支配していきました。結局、ブルジョア資本主義も、マルクス社会主義も、実は両者とも経済中心の主義(イズム)であり、経済至上主義だったのです。
第一次世界大戦で多くの戦死者、負傷者(労働力となる若い男子)を出し、その後の大恐慌による経済の破綻、失業者の大量発生で社会は疲弊しました。ドイツにおいては、戦後の天文学的賠償金の支払いもあり、国民の絶望感が蔓延しました。自ら判断をすることを放棄して、絶対的な権力にゆだねる選択をしたのです。それが国家社会主義、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が選挙により政権をとることにつながったのです。(*1)「脱」経済至上主義ではあるものの、民主主義に反するファシズム全体主義は、戦時体制の終焉(敗戦)とともに敗れ去るのです。
第2次世界大戦後、資本主義は生き残るものの、金融資本主義(マネタリズム)はバブルと恐慌を生み、決して人々の幸せを実現する手段とはなりえていないのです。
そこで、ドラッカーが着目したのが、産業社会です。企業を中心とする産業社会が機能することによって、社会の豊かさを実現できると考えたのです。
その産業社会の成立に大きな力を与えたのが、フレデリック・ウィンスロー・テイラーの科学的管理法によって実現された生産性革命です。産業社会を構成する組織(主に企業)の手によって生産される財とサービスによる「豊かさ」、組織を通じて働くことになった人々の「心の豊かさ」、これらはひとえに組織の運営移管によるのです。
この運営の仕方が「マネジメント」です。
ドラッカーは、1943年 当時世界最大のメーカー、ゼネラル・モーター(GM)に招かれてそのマネジメントを1年半かけて調査をするのです。その結果が、世の中に初めて、「マネジメント」なる体系をもたらした『企業とは何か(旧:会社という概念)』にまとめられました。世界中の企業、政府機関、NPOの組織と経営陣に大きな影響を与えます。のちにフォードの再建、GEの組織再編の教科書にもなっていきます。
ここまでの内容は、ドラッカーの初期「政治三部作」と呼ばれる『「経済人」の終わり』1939年、『産業人の未来』1942年、『企業とは何か』1946年、に載っています。
次回は、そのマネジメントの階層構造と役割について解説します。『現代の経営』1954年、および集大成『マネジメント―課題・責任・実行』1973年を中心にしていきます。
(*1) エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を参照
Jerry O. (大庭 純一)
1956年 北海道室蘭市生まれ、小樽商科大学卒業。静岡県掛川市在住。
ドラッカー学会会員。フリーランスで、P.F.ドラッカーの著作による読書会、勉強会を主催。
会社員として、国内大手製造業、外資系製造業、IT(ソフトウェア開発)業に勤務。
職種は、一貫して人事、総務、経理などの管理部門に携わる。社内全体を見通す視点、実働部隊を支える視点で、組織が成果をあげるための貢献を考えて行動をした。
・ISO9000s(品質)ISO14000s(環境)ISO27000s(情報セキュリティー)に関しては、構築、導入、運用、内部監査を担当。
・採用は新卒、キャリア、海外でのエンジニアのリクルートを担当。面接を重視する採用と入社後のフォローアップで、早期離職者を出さない職場環境を実現。
・グローバル化・ダイバーシティに関しては、海外エンジニアの現地からの直接採用、日本語教育をおこなう。日本人社員に対しては、英語教育を行う。
・社内教育では、語学教育のみならず社内コミュニケーションの活性化、ドラッカーを中心としたセルフマネジメント、組織マネジメント、事業マネジメントを指導。